お母さんの頭頂部が、気になった日から。

気づいたのは、後ろから母を見た時だった。

台所で夕飯の支度をしている母の背中。いつも通りの背中。何百回、何千回と見てきた背中。でもその日は、なんとなく目が止まった。

頭頂部のあたりが、薄い。

地肌が、見えている。

その瞬間、胸の奥が、ぎゅっとなった。言葉にできない感情が、静かに広がっていった。

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あの頃のお母さんを、私はよく知らない

母が若い頃の写真を見ると、髪が多い。黒くて、つややかで、ふんわりとしている。笑顔も若くて、どこかはにかんでいて、まだ私が生まれる前の、私の知らない母がそこにいる。

「この頃は美容院にもよく行ってたんだよ」と、昔母が言っていた。「ヘアカタログを見て、こんな髪型にしてほしいって言ってね」と、少し遠い目をして。

私が生まれてから、母が美容院に行く回数は減っていった。気づいたら、年に一回行けばいいほうになっていた。お気に入りのシャンプーも、いつの間にかドラッグストアの安いものになっていた。自分のためにお金を使うことを、母は自然にやめていた。

誰かに言われたわけじゃない。誰かに禁じられたわけでもない。ただ、気づいたらそうなっていた。子どもの塾代、学校の費用、給食費、部活の道具——お金の使いどころは、いつも私たちのためだった。

周りのお母さんたちは、綺麗だった

小学生の頃、友達のお母さんが迎えに来るのを見るたびに、思っていたことがある。

綺麗だな、と。

ちゃんとお化粧をして、髪をセットして、きれいな服を着ている。我が子を迎えに来る時間でも、ちゃんと「自分」を持っている。

うちのお母さんは、そうじゃなかった。エプロンのまま来ることもあった。髪はひとつに束ねただけで、化粧もうっすらだった。

子どもの頃の私は、正直、少し恥ずかしかった。ごめんね、お母さん。今はその言葉が、胸に刺さる。

お母さんは、余裕がなかったんじゃない。余裕を、私たちに全部使ってくれていたんだ。

綺麗にしたかった気持ちが、なかったはずがない

女性なら、綺麗でいたいと思う気持ちは、絶対にあるはずだ。

お母さんにだって、好きな香水があったかもしれない。ずっと気になっているヘアスタイルがあったかもしれない。「こんな服が着たいな」と思いながら、棚に戻したことがあったかもしれない。

でも母はそれを口に出さなかった。出せなかったのか、出さないようにしていたのか、私にはわからない。ただ、母の引き出しの奥に、一度も使われていない口紅が入っているのを見たことがある。きれいな赤色の。

あれは、誰かへのプレゼントじゃなかったと思う。

自分のために買ったけど、使う機会がなかった口紅だと思う。

その口紅のことを思い出すたびに、目の奥が熱くなる。

気づけばよかった、もっと早く

私が社会人になって、自分でお金を稼ぐようになって、ようやくわかったことがたくさんある。

美容院に行くのに、お金がかかること。自分のためにお金を使うことに、慣れていないと罪悪感を覚えること。忙しい毎日の中で、自分の身だしなみを後回しにしてしまうこと。

母がしてきたことの意味が、自分が大人になってからやっと、骨身に染みてわかる。

もっと早く気づけばよかった。もっと早く、「お母さんも自分のために使っていいんだよ」と言えばよかった。

でも、今からでも遅くないと思いたい。

お母さんの髪を、取り戻してあげたい

台所の母の後ろ姿を見てから、私はずっと考えていた。

あの薄くなった頭頂部は、長年の疲れが出たものかもしれない。栄養が足りなかったのかもしれない。ホルモンの変化かもしれない。自分のことを後回しにし続けた、その積み重ねかもしれない。

原因がなんであれ、私はお母さんに、もう一度自分の髪に自信を持ってほしい。

鏡を見て、悲しくなってほしくない。

美容院に行って、「髪がボリュームアップしましたね」って言ってもらえる日が来てほしい。

好きな髪型ができる、その日のために、私ができることをしたい。

お母さんへ

私を育てるために、あなたはたくさんのものを後回しにしてきた。

綺麗でいることも、好きな服を着ることも、自分のために時間を使うことも。

私はそれに気づくのが遅かったし、気づいてからも何もできていなかった。

でも今、私はお母さんのためにできることを探している。

お母さんが使いきれなかった赤い口紅の分まで、これからはお母さんが綺麗でいられるように。

まず、髪から。

あの頃の写真の中のお母さんみたいに、黒くてつややかな髪を、もう一度取り戻してほしい。

それが、私からの、小さな恩返しです。

お母さん、今まで本当にありがとう。

——娘より

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