母が死んだのは、私が七歳の春だった。
桜が散り始めた四月のことで、病院の窓から花びらが舞うのを、私はずっと眺めていた。泣き方がわからなかった。お母さんが死ぬということが、七歳の私にはまだ本当のこととして受け取れなかったのだと思う。
父は何も言わなかった。ただ私の手を握って、窓の外を見ていた。
葬儀が終わった後、父は一つの木箱を私に渡した。古くて小さな、茶色い木箱だった。
「お母さんから、花への贈り物だ」
私の名前は、花という。
箱の中には、封筒が何枚も入っていた。それぞれの封筒に、母の文字で言葉が書いてあった。
『小学校を卒業する日に』
『中学校を卒業する日に』
『高校を卒業する日に』
『初めて恋をした日に』
『失恋した日に』
『成人式の日に』
『結婚する日に』
『子どもが生まれた日に』
『お母さんのことを思い出した日に』
父は静かに言った。「その日が来たら、開けなさい。お母さんと約束したから」
私はその木箱を、ずっと大切にしまっておいた。
小学校卒業の日
十二歳の春、私は小学校の卒業式を終えて、家に帰ってすぐに木箱を開けた。
『小学校を卒業する日に』と書かれた封筒を、震える手で開けた。
中には、便箋が二枚入っていた。
――花へ。
卒業おめでとう。お母さんは今日、あなたのそばにいるよ。ランドセルを背負って登校する後ろ姿、ずっと見てたよ。卒業式、きっとかわいかったね。
あなたが生まれた日のことを、今でも覚えてる。小さくて、真っ赤で、でもものすごく大きな声で泣いていた。お医者さんに「元気な女の子ですよ」って言われた時、お母さんは嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。
あなたに花って名前をつけたのはね、どんな場所でも、どんな季節でも、花は咲くから。雨の日も、風の日も、ちゃんと根を張って、自分の色で咲くから。あなたにもそんな人になってほしかった。
中学校でも、たくさん笑って。転んでも、また立ち上がって。お母さんはずっと見てるから。
大好きだよ、花。――お母さんより
私は声を上げて泣いた。
母の字は、少し右に傾いていた。几帳面な、でも温かみのある文字だった。私はその便箋を何度も何度も読んで、最後には胸に抱きしめた。
失恋した日
十六歳の冬、私は初めて本気で好きになった人に振られた。
泣きながら家に帰って、木箱を開けた。『失恋した日に』という封筒は、少し厚みがあった。
――花へ。
失恋したんだね。つらいね。本当につらいね。
お母さんもね、二十歳の頃に一度、ひどく失恋したことがある。三年付き合った人に、突然別れを告げられて、三日間ご飯が食べられなかった。あの痛さは、今でも覚えてる。
だからわかる。今、花の胸の真ん中に穴が開いてるみたいな気持ちがするでしょう。何を見ても、その人のことを思い出すでしょう。
泣いていいよ。思いきり泣いていい。
でもね、一つだけ教えておくね。
失恋の痛みは、必ず薄れる。今は信じられないかもしれないけど、本当のことだから。そしてその痛みを知っている人は、人に優しくなれる。誰かが泣いている時に、そっと隣に座ってあげられる人になれる。
あなたが一生懸命に誰かを好きでいたこと、それはちっとも恥ずかしくない。すごく素敵なことだよ。
今夜は温かくして、ゆっくり眠ってね。明日になったら、少しだけ楽になってるから。
大好きだよ、花。――お母さんより
私はその夜、便箋を握りしめたまま眠った。
目が覚めた時、母の言った通り、少しだけ楽になっていた。
成人式の日
二十歳の一月、振袖を着て写真を撮った後、私は一人で木箱を開けた。
――花へ。
二十歳になったんだね。おめでとう。
振袖、似合ってるよ。お母さんには見えないけど、絶対に似合ってる。なぜならあなたはお母さんに似ているから。お父さんには内緒だけど、目元が特に。
あなたが生まれてすぐの頃、お母さんはとても不安だった。ちゃんとお母さんになれるか、あなたを幸せにしてあげられるか、毎日が怖かった。夜中に泣いているあなたを抱きながら、自分も一緒に泣いていたこともある。
でもね、あなたが笑うたびに、お母さんは救われた。あなたが「ままー」って呼ぶたびに、生きててよかったって思った。
病気がわかった時、一番つらかったのは、あなたの成長を見られないことだった。卒業式も、成人式も、結婚式も、見られないことが、怖くて悲しくて、毎晩泣いた。
だからこの手紙を書いた。せめて言葉だけでも、一緒にいたかったから。
花、二十年間、生きてくれてありがとう。元気でいてくれてありがとう。あなたが生きているだけで、お母さんはずっと幸せだよ。
大好きだよ。世界で一番。――お母さんより
成人式の帰り道、私は一人で泣いた。
振袖の袖が濡れるのも構わず、しゃがんで泣いた。通りがかった知らないおばあさんが「どうしたの」と声をかけてくれて、私は「お母さんに会いたいんです」とだけ言った。おばあさんは何も聞かずに、ただ背中をさすってくれた。
結婚する日
二十八歳の秋、私は結婚した。
式の前の朝、一人で木箱を開けた。
――花へ。
結婚するんだね。おめでとう。
その人は、優しい人? あなたのことを大切にしてくれる人? お母さんはそれだけが気になって仕方ない。
一つだけお願いがある。
喧嘩した時、意地を張らないでほしい。ごめんなさいって言える人でいてほしい。プライドより、大切なものがあるから。お母さんはそれを、お父さんと二人で生きてきて学んだから。
お父さんのこと、頼ってあげてね。不器用だけど、あなたのことが大好きな人だから。お父さんは、あなたが生まれた日に、声を上げて泣いた。あんなに泣くお父さんを、お母さんは後にも先にも見たことがない。
白いドレス、きっと似合ってる。
バージンロードを歩く時、お母さんも一緒に歩いてるから。見えなくても、ちゃんといるから。
幸せになってね。あなたが幸せだと、お母さんもずっと幸せだから。
大好きだよ、花。今日という日を、ずっと楽しみにしてたよ。――お母さんより
私は式場のトイレで、しばらく出られなかった。
ドアの外から夫が「花、大丈夫?」と声をかけてくれた。私は「うん、大丈夫」と答えた。声が震えていたと思う。
バージンロードを歩く時、父が隣にいた。父の腕は少し震えていた。私も震えていた。
ふと、左側が温かい気がした。
気のせいかもしれない。でも私はその温かさに向かって、心の中で言った。お母さん、来てくれてありがとう。
子どもが生まれた日
三十歳の夏、娘が生まれた。
産後の病室で、小さな娘を抱きながら、私は木箱を開けた。
――花へ。
お母さんになったんだね。
その子を、初めて抱いた時の気持ちを、覚えておいてね。あの温かさ、あの重さ、あの匂い。それはきっとこれからの全部を支えてくれるから。
お母さんもね、花を初めて抱いた時、世界が変わった気がした。こんなに小さいのに、こんなに完璧なのに、この子を守れるのは私しかいないんだって、震えるくらい思った。
これから大変なこともたくさんある。眠れない夜も、泣き止まない夜も、どうしていいかわからない夜も。でも大丈夫。あなたはもうお母さんになってる。なれてる。
その子に名前をつける時、どうか「生きる力」のある名前をつけてあげてね。どんな場所でも根を張って、自分の色で咲けるような。
ねえ、花。
あなたがお母さんになってくれて、本当によかった。あなたを産んでよかった。あなたのお母さんで、よかった。
その子をいっぱい抱きしめてあげてね。言葉にして伝えてあげてね。お母さんの分まで。
大好きだよ、花。そしてその子も、もう大好きだよ。――お母さんより
私は娘を抱いたまま、泣いた。
看護師さんが「どうされましたか」と駆け寄ってきたけれど、私はただ首を振った。泣きながら、笑っていた。
娘の名前は、咲、にした。
お母さんのことを思い出した日
木箱の中に、最後の一通が残っていた。
『お母さんのことを思い出した日に』
この封筒だけは、開ける日が決まっていない。私はずっと、開けられずにいた。これを開けたら、本当に終わってしまう気がして。
娘の咲が五歳になった秋、夕暮れの台所で夕食を作りながら、ふと母のことを思った。特別なことがあったわけじゃない。ただ、玉ねぎを炒める匂いがして、子どもの頃に台所に立つ母の背中を思い出した。
その夜、咲を寝かしつけた後、私は木箱を開けた。最後の封筒を、ゆっくり開けた。
――花へ。
お母さんのことを思い出してくれたんだね。ありがとう。
忘れないでいてくれて、ありがとう。
花、お母さんはね、後悔していることが一つある。
それは、もっとあなたに「大好き」を伝えればよかったということ。照れくさくて、恥ずかしくて、言えない日がたくさんあった。もっとハグすればよかった。もっと一緒に笑えばよかった。時間があると思っていたから。
時間は、あると思っていたら、なくなるものだから。
だから花、今のあなたに伝えたい。
大切な人に、今日、「大好き」って言ってほしい。照れくさくても、言ってほしい。お父さんでも、夫でも、咲ちゃんでも、誰でもいい。言葉にすることを、面倒くさがらないでほしい。
それがお母さんの、最後のお願い。
花、長い間、この手紙を読んでくれてありがとう。あなたの人生に、少しでも一緒にいられて、幸せだった。
あなたが笑うたびに、お母さんも笑ってたよ。
あなたが泣くたびに、お母さんも泣いてたよ。
あなたが生きるたびに、お母さんも生きてたよ。
ありがとう、花。生まれてきてくれて、ありがとう。
大好きだよ。ずっと、ずっと、大好きだよ。
――お母さんより
私はその夜、夫を呼んだ。
「どうした?」と夫は眠そうな顔で起きてきた。
「大好き」と私は言った。
夫は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。「俺も」と言った。
翌朝、咲を抱きしめた。「咲のこと、大好きだよ」と言ったら、咲は「知ってる」と言って笑った。
父に電話した。「お父さん、大好きだよ」と言ったら、父はしばらく黙っていて、それから「俺もだ」とだけ言った。声が少し震えていた。
母の木箱は、今も私の部屋に置いてある。もう手紙はない。でも時々、台所で玉ねぎを炒める匂いがすると、母の背中を思い出す。
そしてその時、左側が少し温かくなる気がする。
いつも通り、気のせいかもしれない。
でも私は、そうじゃないと思っている。

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