浩の空 ― 君の夢を、僕が生きる

また、落ちた。

試験会場の外に出た瞬間、秋の風が頬を撫でた。健二は立ち止まって、空を見上げた。高く、青い空だった。

五回目だった。

医師国家試験、五回目の不合格。

周りの受験生たちが足早に去っていく中、健二だけがその場に立ち尽くしていた。三十二歳。予備校の仲間はとっくに合格して、もう現場で患者を診ている。両親はとっくに諦めている。付き合っていた彼女は去年、「いつまでやるの」と言い残して離れていった。

それでも健二は、辞めなかった。

辞められなかった。

ポケットの中に、古びた折り紙が入っていた。もう何度も折り畳まれて、縁がほつれている。白い鶴だった。

健二はそれをそっと取り出して、握りしめた。

「浩、また負けた」

誰もいない空に向かって、呟いた。

目次

浩のこと

中村浩に初めて会ったのは、小学一年生の春だった。

転校生だった浩は、教室の隅に一人で座っていた。誰も話しかけない中、健二だけが「一緒に給食食べようぜ」と声をかけた。理由はない。ただ、一人でいる子を見ると放っておけない性格だった。

浩は驚いた顔をして、それから少し笑った。その笑顔が、太陽みたいだと健二は思った。

二人はすぐに親友になった。

浩は体が弱かった。よく学校を休んだ。それでも来られる日は、いつも健二と一緒にいた。二人で虫を捕りに行き、川で魚を追いかけ、夜になるまで公園で話し続けた。

浩は本が好きだった。特に、人体の図鑑を何時間でも眺めていた。

「これ、全部覚えたの?」と健二が驚くと、浩は誇らしそうに笑った。「だって面白いじゃん。体ってすごいんだよ。心臓が一生動き続けるんだよ。すごくない?」

「お前、将来お医者さんになるの?」と健二が聞いた。

浩は少し考えてから、こくりと頷いた。「なる。なって、病気の人を助けたい。苦しんでいる子どもを、助けたい」

その声は静かだったけれど、揺るぎなかった。

健二はその時、浩が病院に何度も入院していることを知っていた。心臓に生まれつきの病気があって、手術を繰り返していることも。でも浩は自分の病気のことを嘆かなかった。だから健二も、何も言わなかった。

あの夏の日

浩が入院したのは、二人が小学三年生の夏だった。

「手術するけど、すぐ戻ってくる」と浩は言った。ランドセルを背負ったまま病院に向かう浩の背中を、健二は見送った。「待ってるよ」と言った。浩は振り返って、笑った。

その笑顔が、最後になった。

手術は成功しなかった。浩は三日後に、静かに逝った。九歳だった。

健二は葬儀の日、泣けなかった。信じられなかった。あんなに元気だったのに。あんなに笑っていたのに。昨日まで一緒にいたのに。

浩の母親が、健二に折り紙の鶴を渡した。「浩が、健二くんにって」

病院のベッドで、浩が折ったものだった。不器用な、少し歪んだ白い鶴。

それを受け取った瞬間、健二は泣いた。声を上げて、その場にしゃがんで、泣いた。

なんで。なんでお前が。お前はお医者さんになるんじゃなかったのか。病気の子どもを助けるんじゃなかったのか。

泣きながら、健二は心の中で何かが決まっていくのを感じた。

まだ九歳だったけれど、健二は誓った。

浩の代わりに、なろう。

向いていない、と言われ続けた

健二は勉強が得意ではなかった。

正直に言えば、かなり苦手だった。高校の成績は中の下。理数系は特に弱く、模試ではいつも赤点ギリギリだった。担任の先生には「医学部は現実的じゃない」と言われた。両親には「諦めなさい」と言われた。予備校の講師には「君には向いていない」と言われた。

それでも健二は諦めなかった。

アルバイトをしながら予備校に通い、深夜まで勉強した。一回目の受験は全滅だった。二回目も落ちた。三回目も。そのたびに周りの目が冷たくなった。

「いい加減にしなよ」

「もう二十五だよ? 向いてないってわかってるでしょ」

「浩くんのためって言うけど、それって逃げじゃないの?」

そう言ったのは、当時付き合っていた彼女だった。その言葉は刃のように刺さった。

逃げ。その夜、健二は眠れなかった。布団の中で天井を見つめながら、考えた。

これは逃げなのか。浩の夢を盾に、自分の無能さから目を背けているだけなのか。

わからなかった。でも一つだけわかることがあった。

あの折り紙の鶴を捨てる気には、なれなかった。

予備校で出会った先生

四回目の不合格の後、健二は新しい予備校に入り直した。

そこで出会ったのが、田中という老齢の講師だった。七十近い、白髪の小柄な男だった。授業は丁寧で、わかりやすかった。でもそれより健二が驚いたのは、田中先生が健二に声をかけてきたことだった。

「君、何回目?」

「四回落ちました」と健二は正直に答えた。恥ずかしいとも思わなかった。もうそんな感情は擦り切れていた。

田中先生は頷いた。「なぜ続けるの?」

健二は少し迷ってから、話した。浩のこと。折り紙の鶴のこと。誓いのこと。

田中先生は黙って聞いていた。全部話し終えると、先生は静かに言った。

「私の息子も、医者になれなかった」

健二は顔を上げた。

「病気でね。二十二で死んだ。医者になりたかった子だった」先生は窓の外を見ながら言った。「君みたいな子を教えるのが、私の生き方だよ。誰かの夢を諦めない人間を、この世界に送り出すことが」

それだけ言って、先生は「さあ、始めよう」と教科書を開いた。

健二は涙をこらえながら、ノートを広げた。

六回目の朝

三十三歳の二月、健二は六回目の試験会場に向かった。

電車の中で、ポケットの鶴を握った。もうほとんど形が崩れていた。でも捨てられなかった。

試験会場に入る前、健二は空を見上げた。冬の空は高く、青かった。

浩、見てるか。

今日は全部出し切るよ。お前が覚えていた人体の名前、全部覚えたよ。お前が読んでいた本、全部読んだよ。お前が夢見た世界に、やっと届くかもしれない。

試験が始まった。

問題を開いた瞬間、不思議と頭が澄んでいた。緊張より先に、静けさがあった。まるで隣に誰かが座っているような、温かさがあった。

健二はただ、問題と向き合った。一問一問、丁寧に。焦らず、でも確実に。

試験が終わった時、健二は静かに目を閉じた。

やれることは、全部やった。

結果の日

合格発表の朝、健二は一人でパソコンの前に座った。

ページを開く前に、鶴を机の上に置いた。歪んで、色褪せた、小さな白い鶴。

受験番号を入力した。

画面に文字が現れた瞬間、健二は動けなくなった。

合格。

その二文字を、何度も読んだ。間違いじゃないか確認した。自分の番号を三回確認した。

それでも信じられなくて、健二はただ、泣いた。

声を上げて泣いた。机に突っ伏して泣いた。二十年以上かかった。九歳の夏から、ずっと持ち続けた誓いが、今日やっと形になった。

泣きながら、鶴を手に取った。

「浩、合格したよ」

声が震えた。

「お前の夢、やっと届いたよ。遅くなってごめんな。でも諦めなかったよ。お前が折ってくれたこれを、ずっと持ってたよ」

窓の外は晴れていた。青い、高い空だった。

風が吹いて、カーテンが揺れた。

健二には、それが返事に思えた。

白衣を着た日

小児科医になった。

浩が言っていたから。苦しんでいる子どもを、助けたいと言っていたから。

初めて患者を診た日、健二は診察室に入る前に、ポケットの鶴を握った。もう形はほとんどない。でも手放せなかった。

病室に入ると、小さな男の子がベッドにいた。七歳くらいだろうか。不安そうな顔で、健二を見た。

健二はしゃがんで、目線を合わせた。

「こんにちは。怖い?」

男の子は少し考えてから、頷いた。

「大丈夫だよ。僕がついてるから」

そう言って、健二は笑った。

その笑顔は、昔の浩に似ていると、後から看護師に言われた。太陽みたいな笑顔だと。

健二は、その言葉を聞いた時、泣きそうになった。でも白衣の前ではこらえた。

白衣のポケットの中で、鶴をそっと握った。

浩、俺はここにいるよ。お前が行けなかった場所に、お前の代わりに立ってるよ。お前が助けたかった子どもたちを、俺が助けるよ。

それがお前との約束だから。

それが、俺の生き方だから。

あの白い鶴は今も、健二のポケットの中にある。

もう鶴の形をしていない。ただの、小さな紙の塊だ。

でも健二にとって、それは世界で一番大切なものだった。

九歳の夏に逝った親友が、不器用な手で折ってくれた、小さな夢の形だから。

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